大和国吉野山如意輪寺は、塔尾山椿花院と言う。中千本の桜樹のあいだ、緑の松柏峰に連なる山腹にある当山を、陽春四月桜花咲き乱れ香雲靉靆たる中に、あるいは、秋の紅葉錦を布くとき、あるいはまた、枯れ木をおおう白雪の中に望見すると、大小の伽藍甍を配して連なり、けだし、天下の絶景これに勝ぐるものはない。現在、如意輪堂(本堂)・多宝塔・御霊殿・幽香楼・報国殿・宝蔵・鐘楼・茶所・庫裡等の建造物がある。そもそも当山は、延喜年間(西紀901−923)文章博士三好善行の弟で、醍醐天皇の御帰依を被った日蔵道賢上人の草創にかかり、後醍醐天皇吉野に行宮を定め給うや勅願所となった。正平二年(1346)楠木正行公一族郎党143人と共に参詣の事があった。正中いらい寺運衰退したが、のち、慶安三年(1650)文誉鉄牛上人きたり、本堂を再興し、真言宗を改めて浄土宗とし、念仏を弘表し、ひたすら、御陵の守護に任じた。
元弘三年(西暦一二三三)専横の北條幕府を倒し、建武中興をなしとげた後醍醐天皇は利氏との争いのため京都をのがれ、廷元元年吉野へ行幸、以来吉野行宮に過された。当山は叡信特に篤く吉野朝の勅願所となった。延元四年(一三三九)天皇は病床につかれ「身はたとへ南山の苔に埋むるとも魂魄は常に北闕に天を望まん」と都をあこがれつつ、ついにに崩御された。天皇の御遺骸をそのまま当時の裏山に葬られたのが塔尾陵である。次帝次村上天皇の正平二年十二月二七日(一三四七)楠木正行公の一族黨一四三人が四条畷(大阪府)の決戦(足利武将高師直との戦)に向うに当り、吉野の皇居に天皇と今生の別れを告げ、先帝の御陵に参拝の後、如意輪堂に詣で、髻を切って佛前に奉納、過去帳に姓名を残し、最後に、正行公は鏃をもって御堂の扉に かゑらじと かねておもへば梓弓 なき数に入る 名をぞとゞむる と辞世の歌を残して四條畷に向ったが衆寡敵せず弟正時と共に最期をとげた。現在の如意輪堂は慶安三年(江戸時代)の再建で当時の扉は現在宝物殿に保存されている。 |